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豚丼物語 第二部 豚肉編[1/6] 養豚の歴史
今から約50年前に十勝で飼養されていた豚は、ほとんどが毛並みの長いヨークシャー種だった(1952年ごろ撮影)
「最初のころは豚の飼料はすべて残飯。リヤカーで各戸を回り、集めたものを大鍋でゆでていた時期はずいぶん続いたよ」。

 戦後の1950年に帯広で7頭の子豚から養豚を始め、最盛期には道内でも有数の約5000頭を飼養した。91年に養豚業をリタイアした元帯広市農協養豚振興会会長の橋本富明さん(78)は、当時を懐かしそうに振り返る。
十勝管内で開かれた豚の体形を競う共進会の様子
(昭和50年初期撮影)
依田勉三が4頭持ち込む
 十勝での養豚史の幕開けは「リヤカーでの残飯集め」から、さらに70年ほどさかのぼる。先鞭(せんべん)をつけたのは帯広の開拓で先駆的な役割を担った「晩成社」だった。

 晩成社の依田勉三が詠んだ歌に『開墾のはじめは豚と一つ鍋』がある。帯広在住の郷土史研究家・井上壽さん(78)はこの歌について、「1つの鉄鍋ですべて煮炊きしたことを示すとともに、開拓当時の豚の存在の大きさを物語っている」と分析する。

 晩成社の入植は1883年(明治16年)。勉三は翌年の84年、農耕家畜より先に豚のバークシャー種、ヨークシャー種を計4頭、ヤギ数頭を持ち込み、飼育を始めた。

 勉三は鈴木銃太郎、渡辺勝とともに85年、同盟牧畜社を結成。90年には下帯広村で100頭を超すまでに増えたという。元十勝農協連企画室長で勉三の労苦を後世に伝える、十勝晩成会副会長の新村捷策さん(69)によれば、「勉三は豚肉を煙であぶってハムを製造し、販売を模索していた」。しかし、事業展開は失敗。「当時の人は豚を食べる習慣がなく、札幌などへ輸送する費用もかかるため」という。

 勉三らの試みは日の目を見なかったが、豚の飼育は広く普及。1926年(大正15年)には初の十勝養豚共進会が開催された。「十勝農協連三十年史」によれば、戦争の影響で一時数が減少したが、57年には1万527頭を記録。当時は1戸平均の飼育数は1ケタ台で、多くは農家の自家用。豚は正月のごちそうや冬場の保存食だった。

 その後、昭和40年代を境に、自家用養豚は減り、72年(昭和47年)の養豚戸数は300戸に。一方、養豚専門での大規模化は進み、頭数は同年で2万9102頭と大きく増加した。今から約120年前に始まった養豚が新たな局面を迎えた時期だった。
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